自分が勝てる試合に出ていたい

折に触れて的確なアドバイスをくれる女の友人がいる。

物事の分析力に長けていて、慰めや励ましよりも論理的思考をブン投げてくる彼女に私は信頼を寄せている。

あるジャンルの職業で活躍している彼女とは付き合いが長く、彼女が現在のポジションに上り詰める前から知っているだけに、彼女の成功は嬉しいし、憧れの存在でもある。聡明で人望が厚く、リーダーシップに優れていて、そして強い。私が欲しい能力を全て持っている。

私は信頼できる人のアドバイスで腹に落ちる内容だったものは即試す。とりあえず暫く試してみることでそれが私に向いていることかどうかの判断がつくからだ。想像の範疇で物事を決めつけたり諦めたりするのは勿体ないと私は思っている。そこに伸び代を感じたら物理的に重労働と感じることでも継続するし、自己犠牲を感じてしまったら切り捨てる。伸び代と判断して継続したことが、後々に自己犠牲という形に変貌を遂げるパターンもあるけれど、その場合は気づいたタイミングで速やかに取捨選択して軌道修正をすればいい。

すべては「自分に向いているかどうか」が判断基準。違和感を覚えたらそれ以上は立ち入らない。そこに敏感でいたい。

「歳をとったら得意なことを仕事にしたほうがいい」と彼女は言う。

つまり、試合に勝てるように自分を変えていくよりも、自分が勝てる試合に変えるという方法。歳を重ねてからは、自分の適性を活かした「勝てる試合」で勝ち点を積み上げて行く方が仕事の質も上がるし、劣等感に苛まれる心配もない。何よりも唯一無二の価値を生むことができると私も思う。

これまで色々な職業を浅く広く渡り歩いている私の生き方は年齢問わず基本的にはこれなんだろうけど、時には試合に勝てるよう自分を変えて追い込んでしまおうとする一面ものぞかせる。そこに触れる時、私は何らかの違和感を覚える。その一面とは自分にとって具体的に何を指すのかを徹底的に分析したら、やはり自己犠牲に辿り着いた。

そこの整理整頓をするきっかけを与えてもらえたのが、コロナ禍で休業を余儀なくされた時期に彼女と交わしたLINEだった。
内容的には直接的なアドバイスではなかったが、彼女とのLINEトークの中で「私は違和感のあることをやり続けているだけかもしれない」という気づきを与えてくれる場面があった。

ビジネスを構築する中で「ステップアップに必要条件とされるもの」は、形は違えどどの職種にも存在する。現在私が身を置いている環境の中でもそれは少なからず存在するわけで。その必要条件が私にとっては「試合に勝てるように」必死に追い込んでいるものだったことを認識できたのは彼女とのLINEトークからだった。

良かれと思って追い込んでいたことが、潜在的に自己犠牲に直結していたことを彼女が気づかせてくれた。きっと彼女にはそんなつもりはなかったはずだけど。

そうとわかれば私の行動は早い。私の得意なことを活かすには少しの断捨離と軌道修正が必要だ。時間を割いて戦術を練ってみようと思う。

自分の適性を活かした、勝てる試合。

今後の方向性を大きく見直すキッカケを与えてくれた友人にまた借りを作ってしまった。この借りをどうやって返そうか。

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